第11章 ウマ
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人間が文明を築けたのはウマのおかげだというような仰々しい主張にはかなり懐疑的である とは言え、大げさな表現はさておき、ウマが人間の歴史にかなりの影響を及ぼしてきたことは疑いない
ウマなくしては、中国からカンボジア、またオーストラリアからローマに至る都市文化に対し、騎馬遊牧民が長きにわたって多大な脅威をもたらすことはなかっただろう
イスラムが最初に勢力拡大した際には、ラクダと同じくらいウマも活躍した イスラム帝国による征服に伴ってアラビア語も普及していき、やがて、北方から押し寄せてきた、さらに打規模な別の文化の波と相対することになった
ウマによって拡大してきたその文化とともに広まったのが、インド・ヨーロッパ語族という諸言語で、この言語には事実上すべてのヨーロッパ言語と、イランからインドにかけて用いられていた多数の言語も含まれていた 車輪などの他の多くの文化的要素と同じく、この語族は中央アジアのステップを起源としてそこから地力的に拡大していったのだが、その拡大はウマに多くを負うものだった(Anthony, 2009) その後、ヨーロッパ人が新世界を征服した
ウマをまったく知らなかったネイティブ・アメリカンは、当初この見知らぬ獣を恐れた
長期的な意味でもっと重要だったのは、武力衝突の際にウマがもたらす実際的なメリット
ほどなくネイティブ・アメリカンは自らの文化にウマを取り入れ、それによって大きな展開がもたらされた
複数の騎馬部族が誕生し、それまで人間が住んでいなかった北米大陸のステップ(グレートプレーンズ)に進出していった これらの部族は、バッファロー狩りをしてティピーに住むという18~19生起の遊牧民のイコン的な存在になり、優れた騎兵として歴史に名を残してもいる
人間の歴史へのウマの影響は、ウマがかつてなかったほどの移動性をもたらしてくれたことに起因する
19世紀に旅の手段として列車が出現するまでは、何千年もの間、ウマの能力の限界が陸路の輸送の限界でもあった
多くの道路はかつてウマが通った道に沿って敷設されている
移動性が高まったことで、文化交流や品物の輸送、経済的な相互依存のネットワークが拡大した
グローバル化によってそれまでに類のない好機を得たのは強い力を持つ少数の者
支配にあたり武力を行使することも多かったが、武力もウマの機動力に頼ったものだった
大昔、ウマは他の家畜有蹄類とまったく同じように扱われていた ウマを家畜化したのはウマを狩っていた人たちだった
南ヨーロッパのクロマニヨンの野営地の遺跡から動物の死骸が見つかっているが、大型動物のなかでトナカイについで多かったのがウマ しかしその後、西ヨーロッパではウマの個体数が減少し、それに伴ってウマの消費量も減少した
最後までウマを狩っていたのは、東方のユーラシアのステップの民族
ユーラシアのステップ地方では、家畜化される以前、野生のウマは長きにわたり重要なタンパク質源とされてきた(Anthony, 2009) 家畜化によって、食料としての供給が安定することになったのだが、家畜化過程のごく初期にウマに対する見方が変化した
敬意を払われる対象
しかもこの移行はかなり急速に進んだ
一体どのようにしてこれほど速く食料貯蔵庫でなくなったのか
家畜化が始まったのは他の動物に比べて遅かった
ブタやウシ、ヒツジ、ヤギが農場で飼われるようになってから数千年経ってようやく、アジアのステップでタルパン(Equus ferus)とも呼ばれた野生のウマを馴らそうという試みが行われた 「タルパン」という語は野生のウマを意味するチュルク語に由来する
ウマが家畜化にされ始めた地域の多くでは、食肉用の家畜が既に十分いた
輸送方面で役立った
次の段階は戦争への組み込み
ウマの利用は弾道兵器の発明と肩を並べるほどの革新的な出来事
青銅器時代の戦闘馬車から中世の騎士たちの馬上槍試合まで、はたまたクリミア戦争などもっと大規模な19世紀の紛争に至るまで、結果を大きく左右したのはウマの質だった 騎兵と歩兵の区別が地位の違いになった
地位の象徴としてのウマの価値はアナクロニズムとはいえ未だに残っている
「サラブレッド(高貴なる純血種)」という語自体がまさに「王者のスポーツ」を支える上流階級的な価値観
この価値観は進化の知恵に反しており、サラブレッドの育種家はより速いウマを生み出せないでいる
ウマの進化
ウマはウマ科のわずかな生き残りであるだけでなく、奇数本の蹄を持つ哺乳類であるという奇蹄目というグループ全体の中の、わずかな生き残り ということは、最初の奇蹄類はそれより何百万年も前には出現していたはずだ
だが、他の哺乳類のグループと同様、奇蹄類が本領を発揮して爆発的に多様な種に進化したのは、恐竜が消滅したあとのこと
恐竜絶滅のあとに空いた草食動物のスペースを部分的に埋めたのが奇蹄類
しかし、初期の奇蹄類には様々なサイズのものが見られ、生息環境もさまざま
何百万年もの間、奇蹄類は草食動物として優占的だったのだ
ところが、約2500万年前から奇蹄類の種類はどんどん減少し、現在生き残っているのは比較的少数の種だけ
そのほとんどに対して、人間は消滅への下り坂を滑っていくのに手を貸している
事実、家畜ウマとシマウマ一種を除き哺乳類の系統樹上でかつて大きな枝であったこのグループの生き残りは、系統樹上から消滅しつつある 両者はある重要な形質が異なることで区別される
体重のほとんどがかかる足の中軸
偶蹄類では、足の中軸が第三指と第四指の間を通り、奇蹄類では、足の中軸は第三指を通っている
まず、体重を支える中軸が確立したあとに、有蹄類は2つの異なる道筋へと進化した
そして、進化の累積的な性質によって時とともに多様化し、これらの2つの系統は異なる目を形成するに至ったのだ
(有蹄類が単系統か多系統かについてはまだ決着がついていない)
偶蹄類には、肢端を動かすための二重滑車構造と、イノシシ科を例外としてすべてが持つ複雑な胃という、2つの進歩した特徴が見られるが、奇蹄類にはどちらも見られない
ウマ科は、奇蹄類のなかでは唯一、偶蹄類と匹敵する移動性とスピードを備えた科
草原が広がるにつれて他の奇蹄類が衰退したあともウマ科が長きにわたって栄えたのはこれが理由の一つかもしれない
シマウマがヌーと同じくらい移動性が高いのは、シマウマの四肢が比較的長いから 四肢の伸長は、現生のウマの進化において主要な点の一つ
シマウマはヌーと同様に草を食むが、消化の仕方は完璧に異なっている
ヌーを含む偶蹄目ウシ科のメンバーは複雑な構造の胃を持ち、消化の殆どを胃で行う
シマウマを含む奇蹄類の胃は単純な構造
奇蹄類の草食動物としての主要な適応は後腸で起こっている ウマが草本を食べて生きていけるのは、腸内で消化する以前の咀嚼に負うところもかなり大きい。咀嚼によって草本の消化率が上昇する。大きく歯冠の長い臼歯と強力な顎はそのための重要な適応形質である しかし、糞を分析すれば明らかなように、この適応は反芻動物の胃ほど効率的ではない ヌー(とウシ)の糞は排泄時にはほとんど液体で、食物源はほんの僅かしか含まれていない
一方、シマウマ(やウマやロバ)の糞は丸い小さなかたまりが未消化の草でつながったもの
しかし、それを補うために、シマウマなどのウマ科動物は効率的な咀嚼と急速な消化を行い、大量の食料を消費する
実際、ウシやその他の反芻動物なら餓死しかねないほど栄養分に乏しい草でも、ウマ科なら食料にして十分生きながらえることができる
ウマの進化は、人間の進化と同様、多かれ少なかれ一直線かつ漸進的なものであり、始新世の熱帯雨林に多く見られたキツネ大の雑食動物から、更新世の平原に生息していた大型の草食動物へと進化していったと長らく考えられていた(博物館におけるウマの進化の従来の展示方法に関する議論はMacFadden et al., 2012を参照) 進化は木の枝が分岐していくように起こるというのがダーウィンの考え方だったが、進化生物学者でさえ、ウマの進化にこのダーウィン流の概念をすぐには当てはめられなかった
ウマもロバも哺乳類に属する一本の枝の末端にある葉にすぎず、そしてその枝は昔は激しく枝分かれしていてたくさんの葉が茂っていた、というイメージが確立するまでには、ずいぶん長い時間がかかったのである(→付録5. ウマの進化) 更新世初期(約200万年前)は、真のウマが反映した最後の時代 更新世初期に実際どれほど多くの種がいたにせよ、ウマ類は北アメリカの脊椎動物相のなかでことのほか多様かつ豊富だった そういうわけで、過去1万年間というもの、唯一の野生ウマ(実際は唯一の野生のウマ科)は東半球にしか生息していなかった
数種のウマ科動物がベーリング陸橋を渡って旧世界に移動したのは比較的近年で、ここ500万年以内のこと 家畜化されるようになった時代まで野生ウマが生き残っていたのは旧世界の一部だけだった
コロンブスとそれに続くスペイン人探検家によって、ウマは新世界に戻ってきた
新世界で人間の人間のもとから逃げ出した家畜ウマの子孫はムスタングと呼ばれる エクウス・フェルスがどこまでを含むのかについては異論がある
この場合、ウマ属には2種が生き残っていることになる
いずれにせよ、家畜ウマはすべてがタルパンから生じたもの
モウコノウマは家畜ウマのもとにはならなかったが、家畜化にどのような効果があったのか判断する際の比較対象として役立つ
ウマの家畜化
おそらく人間は、ウマ狩りを通してウマの行動の微妙な差異を知るようになったと考えられる
だが当時、ウマ狩りはたとえばウシ狩りやブタ(イノシシ)狩りほど広く行われてはいなかった 野生ウマの生息していたユーラシアの寒温帯のステップは、年間を通して人間が生活するのはほぼ無理な環境だった
さらに、約2万年前の最後の大氷河期が終わって以来、この草原は着々と退縮していき、それに伴ってウマも減少していた
野生ウマの中には、ステップ以外の地域でなんとか生き延びた集団もあったとはいえ、大多数はごく狭い範囲に閉じ込められたような状態だった
約8000年前でも残っていたのは、まだ広く残っていたユーラシアのステップに生息するウマの集団
ステップの様々な民族はこのウマを長らく狩りの対象としていた
ステップに暮らす民族は、彼らが作った墳丘墓の名にちなんで「クルガン」と総称されていた(Gimbutas, 1990)。しかし文化的にも民族的にも多様であるとの認識が高まるにつれ、この語は用いられなくなってきた これは西部のステップの人々に重大な文化的変化をもたらした
家畜動物が富や権力と結び付けられるようになっいった
ウマを最初に家畜化した人が、もしすでにウシやヒツジを飼っていたとしたら、家畜小屋にさらにウマを加える必要性を感じたのはなぜだろうか?
最初のウマ食いとして、食料としての野生ウマの管理に成功したのは誰だったのだろうか?
それ以外にも、広大なステップ地域のどこかで独立に家畜化が行われていた可能性もある
この他、カスピ海と黒海のすぐ北側のポントス・ステップもウマの初期の家畜化が行われた地域の候補である。Anthony, 2009は、人間の墓所にヒツジやウシとともにウマが捧げものとして埋められていたことから、その地域ではウマの管理が早くも7000年前には開始していた可能性があると確信している。 Warmuth et al., 2011は、イベリアのウマ集団の遺伝的多様性の高さを根拠としてイベリアでの独自の家畜化を提唱している。しかし遺伝的多様性は、系統的に離れた群れとの最近の交雑など多数の過程が原因となりうるため、家畜化の起源についての信頼できる指標ではない ウマの家畜化の最初期段階では、野生ウマをある程度管理するだけだった
ボタイ族は、ステップ文化において乗馬術を完成させ磨きをかけた最初の部族だった
ボタイ族はヒツジやウシを家畜として飼っていた地域からは遠く離れていたので、馬肉にかなりを頼っていた
家畜化したウマは食肉にするのではなく、食肉用のウマを獲得する手段として価値あるものとされた
ボタイ族ににとっては、馬乳、特に発酵させた馬乳酒(クミス)の供給源としても家畜ウマは重要だった
この頃までに、多くのステップ文化にとって馬乳は重要な必需食料になっていた
乗馬が西方に広がるにつれ、異なる用途が生じてきた
乗馬は輸送方法として好まれたと言うには程遠く、上流階級の人々には2000年以上ものあいだ避けられていた
スポークのある車輪の発明により、チャリオットによる旅行が約4000年前には可能になっていた
軽量高速型のチャリオットは特に戦場で役立った
ステップだけではなく、南方の都市化が進んでいた近東文化にとってもそうだった
近東では数世紀にわたって戦場で大活躍した
青銅器時代にはウマ引きチャリオットが地位や富と結び付けられるようになり、スコットランドから中国に至るまで、ウマとセットのチャリオット、あるいはチャリオット単独が、身分の高い人の墓の副葬品として人気を博すことになり、時代が下るにつれてその傾向は強まっていった
騎兵隊の出現により戦争は運命的な転回点を迎え、世界史の流れは計り知れないほどの影響を受けた
ウマの家畜化の特殊性
ウマの家畜化過程には、独特な性質がある
ウマの家畜化では、初期の頃から野生の血を入れ続けることにより、家畜ウマのスピード、体力、知性といった性質を増強しようとしていたようだ
家畜ウマの群れに野生の雌を計画的に導入することにより、ステップの厳しい環境に耐える頑健さを家畜ウマでも維持することができた
明らかな障害は従順性が低下したこと
古代のウマの育種家は、家畜ウマの群れに野生の雌のみを迎え入れることによってこの問題を多少は改善することができた(Cieslak et al., 2010; これは従順性と頑健さのトレードオフを扱う一つの方法だった) 家畜動物の原種となった野生動物では、多くの場合、雌に比べ雄はかなり攻撃的で扱いにくい
このためウシやブタ、ヒツジ、ヤギなどの家畜の群れを作る際、野生の雄は比較的少数だけが使用された
しかし、ウマの家畜化の過程では、野生の雄を排除するという極端な傾向が見られた
野生の雌ウマを家畜ウマの群れにときどき導入したので、初期の家畜ウマは野生の祖先と比べてほとんど差がなかったかもしれない
そのせいで考古学研究では事態が複雑になってしまっているが、考古学者も優秀なもので、骨格以外の手がかり(埋葬や堆肥、歯の摩耗など)を用いて、家畜化過程における重要な出来事が起きた時期を決定している
この範囲の拡大が、ボタイ文化が栄え、かつ乗馬術が出現した時代に起こったのは重要 その後、新王国時代には南方に広がってヌビアに達し、さらに西方へ向かって北アフリカの大部分にまで広がった 家畜ウマが中国に到達する頃(約4000年前)までには、おそらくチャリオットを引くのに使われるようになっていた
家畜化の特徴
頭部は大きめで首が太かった
タルパンの毛色
ステップの大部分に生息していたユーラシアの野生ウマは、モンゴルの野生ウマと似たような薄墨色、すなわち灰色がかった茶色のグルジャと呼ばれる毛色をしていたと思われる 背筋から尾の付け根までは鰻線と呼ばれる濃い色の筋が走っていた 肩に沿って暗い縞があり、四肢の色は濃い目だった
特に注目したいのは、どの野生ウマもたてがみが暗色でブラシのような短い剛毛からなっていたこと
モウコノウマと野生化したウマから、家畜ウマの祖先の社会行動を推察することが可能
優位な雄一頭と数頭の雌、およびその子からなる小さな群れで生活
優位雄はライバルをかわすにはかなりの時間のエネルギーを割かなければならない
ときには自分の群れで成熟した雄ウマから見を守らなければならないこともある
ただし、雌とイチャイチャする様子が目に余るようになったり優位雄への敬意が不十分になったりした雄は、追い出されてしまうのが常
雌ウマたちからは片時も目が話せない
成功するのはまめに努力する好戦的な雄
雌のタルパンは雄に比べてかなり社交的かつ素直であり、管理もずっと楽だった
従順性を対象とした人為選択によって、ウマは人間からの指示にますます敏感になっていった
家畜化過程が始まってからかなり時間が経っても、家畜馬と野生のウマは行動でしか区別できなかったと思われる
ウマに人が乗り始めた頃には、毛色のバリエーションはかなり豊かになっていて、さまざまな毛色が入り交じる個体もよく見られた
どの個体も薄墨色だったのが、茶色、栗色、黒色、白色が現れ、さらにその様々な組み合わせによって、白毛の混じる粕毛、濃色部分と白色部分が斑に大きく分かれる斑毛なども現れた(Ludwig, 2009) 人為選択も一役買っている
ウマの育種家たちは、珍しい毛色や模様の個体を増やそうと努力した
イヌと同様に、この人為選択はかなり強力
自然選択は有害な遺伝子を排除する方向に働くが、人為選択がこの効果を打ち消してしまったため、新たに発現した毛色や模様の中には難聴や夜盲症、結腸の欠陥といった有害な形質と関連するものもあった(Bellone, 2010) 家畜ウマにおいてもっとも傑出した改変の一つはたてがみ
家畜化過程をたどるうちに、たてがみの毛は長くなり、今日見られるような柔らかい毛が長く垂れ下がる装飾的なものになった
野生のウマ科動物の剛毛からなるたてがみは、大型捕食動物から首に噛みつかれた際にある程度は命を守ってくれるのではないかと考えられている
もしそうならば、家畜ウマのたてがみの変化は自然選択圧が弱まった結果ということになる
だが、家畜ロバはおおむね野生型のたてがみを保持していることから考えると、ウマのたてがみがここまで変わったのは、人間の美的な好みのほうが重要な役割を果たしたためのようだ
雄同士の競争では首への噛みつきが高頻度で見られ、また雄の犬歯が大型であることから考えると、ブラシ状のたてがみは雄間競争(同性内選択)で役立っているのではないかとわたしは思う。もしそうならば、家畜ウマの長いたてがみは性選択の減少をある程度は反映しているのかもしれない 在来種と品種
家畜馬は、分布域が拡大するに従って複数の在来種へと別れていった 19世紀初頭には、それら在来種を土台として品種の構築が始まった
原始的な品種の多くは実際、今日まで在来種の状態にとどまっている
それぞれの名前は、こういった在来種が進化した地域に由来
これら在来種の大半は、それぞれの来歴のどこかの時点で野生化したもの
野生化した在来種の中には、エクスムア・ポニーのように、程度は様々であはあるが、野生の祖先に似た毛色や体型を示すものもいる
しかし、たてがみを見れば、この主張が誤っていることがわかる
ソライアには他の「原始的」な在来種と同様に長いたてがみが生えており、これは過去の家畜化の名残(Olsen, 2006) ユーラシアの野生ウマは、過剰な狩猟と家畜ウマとの交雑とがあいまって、おそらく18世紀には事実上絶滅していただろう
だが、もっと後まで生き残っていたという主張もある
しかしこの個体には長いたてがみがあった
1806年、(ソライアを除いて)野生で生息する最後の野生ウマだと推定される複数の個体が、ポーランドのビャウォヴィエジャの森で捕獲されて地元の農夫に売られた
このウマたちは野生化以前におそらく地元の家畜ウマと交雑していたと思われる
さらに、野生化して在来種に分岐したあとには、意図的に家畜ウマとの交雑に用いられた
ビャウォヴィエジャのウマのことを知った生物学者タデウシュ・ヴェトゥラニは、そのウマたちをもとに野生ウマを遺伝的に再現しようと試みた 兄弟のオーロックス再現と同様、とても成功と言えるものではなかった 育種家の手によって劇的に変わるものとしては、毛色のほかにサイズがある
ユーラシアの野生ウマは広大な分布でおそらくサイズにバリエーションが見られただろうが、現代のウマの基準に照らせば平均してかなり小柄な方に収まるだろう(Olsen, 2006) 最初の頃は家畜化によってさらに小型のものも作り出されたらしい
それ以降は事態が劇的に変化した
ペルシュロンもまた、大型の輓馬で中世の軍馬や馬上槍試合用のウマが祖先だと言われている 品種のサイズはその品種がどんな目的のために開発されたかを概ね反映している
輓曳用のウマは大型
中型の品種は騎乗用あるいは軽馬車引き用
小型の品種はしばしば炭鉱での運搬用
英語圏では品種はしばしば気性によって区別されている
気性の違いは地理的な起源によるものだとされることも多いがそれは間違い
サラブレッドの名高い特徴の多くは、このスレンダーで脚の長いホットブラッド、特にアラブから受け継がれたもの
ホットブラッドの敏感な気性は、長い脚や小さな頭部とともに、若年期の典型的な特徴であることが示唆されている
視点を広げると、ウマの家畜化と品種の文化のすべての段階においてヘテロクロニー(異時性)の果たした役割を研究するのは意義深いと思われる サラブレッドの奇妙なケース
サラブレッドはおそらくイヌ科以外の家畜化されたどの品種よりも、「遺伝的な純粋性」という問題をはらむ旧態依然とした考え方を反映している
この考え方には、生物学的な観点から見て問題があり、それゆえ進化的な観点から見ても問題がある
この考え方が旧態依然としているのは、親の持つ形質が液体のように混ざり合って子に伝わるという、貴族階級以外が捨て去った遺伝説(混和式遺伝モデル)をもとにしているから このメンデル以前のモデルによれば、純粋に属するもの以外と交配すると、その品種が受け継いできた優れた形質が薄まってしまうことになる
メンデルは親から子に伝わるのが原子のように不可分の粒子的な存在、すなわち遺伝子であると考えた この近代的モデルによれば、異系交配は概してよいものであり、異系交配により遺伝子の新たな組み合わせが生じる
近代的な粒子式遺伝モデルのもう一つの結論は、「平均への回帰」 これによれば、優秀な親から生まれる子は親よりも平均に近くなる
足の速さなどの一見単純な特徴は、実は複数の運動生理的な特徴が組み合わさったものであり、また個々の形質は多数の遺伝子に影響を受けるから
それぞれを足し合わせれば結果が決まるというわけではない
それゆえ、レースで優勝するウマは、多くの遺伝子が偶発的にめったにない組み合わせになった結果、生まれた
また、それぞれの遺伝子は独立に受け継がれたものでもある
そして、繁殖により複雑な形質を得るのは、毛色のような単純な形質を得る場合とは対極的に宝くじを引くようなもの
望ましい形質を持つ個体のみをかけ合わせることにより、くじのオッズを高めることはできる
そういったやり方はサラブレッドの育種の初期段階では特に効果を上げた
しかし、やがて折り返し地点に達し、効果が見られなくなってしまう
そうなったらサラブレッド以外の品種とランダムに交配するのが、レースでの競争力を向上させる最良の方法
ありあまるほどの証拠から、サラブレッドはこの折り返し点に到達したものと考えられる
トレーニング手法が改良され、薬剤によるあらゆる種類の補助が行われているにもかかわらず、レースのタイムはこの50年というもの向上していない
ウマ愛好家は、サラブレッドの育種は単にスピードだけでなくレース能力向上を目指したものであると性急に反論してくるが、スピードがレース能力のなかでも重要な要素であることは明らかである
三冠王を含め、レースで素晴らしい成功をおさめたウマは、種馬としてはそれほど成功しないのがしばしば
実際、くじ引きに貢献することすらできない個体の数はものすごく多い
彼らは悲しいことに「役立たずの種馬」と呼ばれている
逆に、最も成功した種馬のなかには競走馬として特に傑出してはいなかったものがいる。これは種付け料と子ウマの価格の問題(本質的には競馬界での市場の機能に関わる問題)につながる。両者はまったく調和していない。つまり、子ウマの価格と生涯の勝利数との相関関係はきわめて低いのだ。これは遺伝が高度にランダムであることの証拠なのだが、ウマ市場はこのことを受け入れられないままである (Wilson & Rambaut, 2008) さらに、妊娠しても誕生に至らないケースは20%にのぼる
だが、レースでの競争力が改善されないのは遺伝学的な問題だけが関わることではない
表現型のレベルにも目を向けなければならない
生物体は複数の部分の単なる寄せ集めではなく、それぞれの部分が体系的に統合されたもの
そのためある部分におきた変化が他の多数の部分に影響を与えることもある
サラブレッドは、心臓と肺が度外れて大きくなるように進化しており、有酸素運動能力が増大している
心臓と肺を収める巨大な胸腔は、胃や腸を圧迫し、有害な影響が生じてしまう
さらに、典型的なアラブからそのまま受け継いだサラブレッドのほっそりした脚や小さめの足に対し、その体はあまりにも大きすぎる
脚の負傷が高頻度で発生することになり、それが命取りになる場合も多い
体型上の欠陥によって、サラブレッドの競争力には限界が設定されているのかもしれない
ウマのゲノミクス
2009年、最初の多少なりとも完璧なウマのゲノムが決定された
この画期的な成果は人間の疾患の解明に役立つ可能性のあるものとして賞賛された
しかし、ウマの運動生理に関わっていると思われる遺伝子は多数あり、それらの遺伝子間には複雑な相互作用がある(H. Kim et al., 2013)だけでなく、そのような遺伝子が知られていなかった 正確を期すならば、「大多数のサラブレッドの遺伝的バックグラウンドを考慮に入れるなら、短距離走のスピードを向上させるが、長距離ではまったく利益をもたらさない類の対立遺伝子」となるだろう
一つは野生型の対立遺伝子で、持久力をもたらすもの
ここでは「e対立遺伝子」とする
もう一つは突然変異型で、短距離走でのスピードを促進するもの
ここでは「s対立遺伝子」とする
e対立遺伝子を野生型と呼んだのは、この遺伝子がウマの他の品種にも見られるからであり、またごく最近まで、サラブレッドの大半の遺伝子型はeeであったからでもある(Bower et al., 2012) 19世紀の競馬はかなりの長距離で争われていて、10マイルになることもしばしばだったので、この組み合わせはかつては勝ち組だった
その後、レース距離は次第に短縮された
突然変異遺伝子sは、サラブレッド種の始祖となった雌ウマのうち一頭がもっていたもの
この遺伝子の頻度はしばらくの間、集団内で低く保たれていた
1950年代になると、ニアークティックという雄馬が両親からこの遺伝子を受け継ぎ、この雄ウマが突然変異遺伝子をもつ雌ウマと交配したことにより、1961年にノーザンダンサーが誕生した そして、「選択的一掃」として知られる現象が起きてレース環境が変化した結果、s対立遺伝子の頻度が急速に増加した 選択的一掃: 強い選択圧によって特定の変異が集団内に広まり、多様性が低下すること 2009年以降、他の多数のウマ品種についても、ゲノムの塩基配列が部分的に決定され、品種間の機能的な差異を生み出す遺伝的基盤を探求する下地となった 知覚認知に関わるコピー数変異は、品種間の気性の違いと関係すると推測されているが、わたしとしてはそれほどの相関関係があるとは思えない
この品種は米国の農場の典型的な使役馬で、ロデオで標準的に用いられる品種でもある 米国では登録数は約300万頭で、他のどの品種よりも抜きん出ている
クォーターホースは短距離レースでのスピードを対象とする選択により作出されたので、作出の過程でサラブレッドと交配され、その遺伝子も受け継いでいる
だが、もっと重要なのは、農場での仕事との相性を対象に選択されたということ
サラブレッドとクォーターホースでは選択の方向性が異なっているため、両者のゲノムを比較すればなかなかおもしろいことがわかってくるだろう
本書の執筆段階では予備的な結果がいくらか得られているだけ
クォーターホースはサラブレッドよりも近親交配の度合いが低いことが示唆されている
近い将来、ウマの品種間のゲノムを比較することにより、人為選択や創始者効果、遺伝的浮動、交雑がサラブレッドやクォーターホースのみならず、他の様々なウマの品種の開発にいかに影響を与えたかが明らかにされるに違いない